住職雑感

 腰は一生のパートナー
初めてぎっくり腰を体験してから20年以上になります。重い箱を不用意に持ち上げた途端に強い痛みに差し込まれました。爾来何度か強い痛みに襲われて動けなくなり、腰痛にはもうこりごり。日頃から注意して生活することにしています。
 ところが「喉元過ぎれば熱さを忘れ」の譬え通り、痛みのない時は、油断してついつい無理を重ねてしまいがちです。その上面倒くさがりの性格なので、教えていただいた腰痛予防の体操もサボり気味。朝起きてみたら腰に重い違和感を感じることもしばしばで、懲りないなあと自分にあきれる始末です。
 科学万能といわれ、医学も想像以上に発達した現代社会ですが、自分の身体は取り換えがききません。健康を保つには、お医者様や他人に委ねることなく、自分で強い意志をもって努力し続けることが不可欠です。
年齢を自覚し、目先の思いに流されず、整備を怠らず、身体の状態に生活を合わせながら、生涯長持ちさせて生きたいものです。

 葬儀・追善 もっと誠実に考えよう
現代人の葬儀に対する考え方やその有様が変わって来ているようです。
ある調査によれば、首都圏に住む人口の七割ほどは地方出身者の世帯であり、それも二男三男が殆どだとか。
都内や近郊で墓地を求めることは、経済的にも甚だ困難です。また、先祖や親の供養は、これまで実家まかせだったので、お寺との親しい付き合いもなく、自分の葬儀をどうしたら良いのか分からないという深刻な問題が、最近の葬儀のあり方に大きく影響しているように感じます。
だからといって、誰もが直葬とか散骨等々の、悪しき風潮に流されてしまって良いはずはありません。一人でも多くの人が葬儀や追善供養の意義に触れ、大切な人を丁寧に送り、自分もまた丁寧に送られる本来の葬儀・追善の尊さ・奥深さを感じて欲しいと念願します。

 ありがたき人の死
4月14日、50年の長きにわたって当山の総代を務め、常に檀信徒の先頭に立って護持信行に精進下さったSさんが九十五歳の天寿を全うされました。まさに妙福寺の大黒柱を失った思いです。
 家の柱というものは、普段はあって当たり前であり、どれほど支えられているのかということに思いを馳せることは、ほとんどありません。しかし、柱が折れて支えを失ってしまうと、全体が傾き、安心して生活出来なくなり、つくづくその存在の大きさ有り難さに気付かされます。
 思えば、私たちの身の回りには、柱のように支えてくれる大勢の人々がいるはずです。常に「おかげさまで」という感謝と労わりの気持ちを忘れないことが、肝要だと感じます。

 幸せと自分が思うことを相手に願うこと
数か月前、中学生の女の子を誘拐し、およそ二年間にわたり監禁していた男性が逮捕されました。被害者の少女が、楽しいはずの家庭や学校での生活を奪われ、長い間恐怖を強いられたことは、あまりに残酷であり、容疑者の男性への憤りの思いを禁じ得ません。少しでも早く少女の心身の傷が癒えてくれることを願うばかりです。
 また、容疑者が超エリートといわれる中学・高校を経て優秀な国立大学に通う学生だったということも驚きです。彼の親たちは、社会において役に立つ人間になって欲しいと願って、一生懸命彼を教育したのではないのでしょうか。人生の歯車は、なぜ・どこで狂ったのでしょう。
 私たちの住む社会は、平和で豊かではありますが、人生が安全で安穏であるように、仏様や神様に祈る心が、もっともっと必要なのだと痛感させられました。

 便利な自動運転
昨年辺りから、テレビコマーシャルなどで自動運転≠ニいう言葉がよく聞かれるようになりました。
 高速道路の逆走や運転中の急な発作によりドライバーが意識を失って歩行者が巻き込まれて死傷する事故など、この数年はこれまでに考えられなかった事故が相次ぎました。
 ドライバーが運転できない状況になっても、車自体がちゃんと安全に運転してくれるという夢のような技術が、世界中で求められています。日本の技術をもってすれば、近い将来一般の乗用車に自動運転≠ェ採用され、省エネと併せて、世界一親切で気配りに満ちた自動車文化が生まれることでしょう。子どもの頃に想像していた未来社会が現実になるということは、とても素晴らしいことです。
しかし、楽しみではありますが、まだもう少し、車に乗せられて運ばれるだけでなく、車を操作して運転してるという体感を感じていたいと思うのは、小衲だけでしょうか・・・

 悩み
病気やケガ、人間関係のひずみ、受験や仕事の失敗等々、「自分の人生こんなはずじゃなかったのに」と思っている人は少なくないでしょう。誰一人として、何の悩みも無く気持ち良く人生を謳歌している人はいないはずです。
 お釈迦様でさえ悩みに悩みぬいて出家の道を選ばれ、更に苦しい修行を積まれた末に人生の悟りを見出されたのです。お祖師様もまた苦しみの連続の人生でした。なぜ私たちはそんなに苦しんで生きなければいけないのでしょう。もし悟りを得れば、もうその先は悩んだり苦しんだりしなくて良いのでしょうか。
 この世に生まれて来るのは、苦しんでいる縁ある人を救いたくて、自ら犯したくもない罪をわざと犯して同じ境遇に生まれ合わせ、一緒に苦しみながら救いの道を探し求めるためだそうです。この世の出来事はすべて前世からの宿題ということになります。さぼらずにしっかり片付けてしまいたいものです。

 正法山景正月号より
今年は申年です。十干十二支の干支(えと)では丙申(ひのえさる)です。
丙は明らかという意味です。十干は樹木の成長に例えられ、丙は甲・乙に次ぐ三番目ですから、木が成長して形が明らかになって来る時期を意味します。   
申は呻く(うめく)という意味で、これも樹木の成長に例えると果実が熟して固まっていく状態を表しています。
また九星では二黒土星という年回りです。土星は大地を表します。天の恵みを受けた大地は、万物を生み育てる力を発揮する徳があります。
したがって丙申という年は、今まで地道に頑張ってきたことが認められ、その成果が形となって表れて来る年になると考えることが出来ると思います。
いずれにしても人生は山あり谷あり、病気や怪我もあれば、思わぬ災難に見舞われることも覚悟しておかなければなりません。
どんな幸せを手に入れたいのか、どんな人生を実現したいのか、年頭にしっかりと目標を定め、その目標に向かって誠実に考え行動していきたいものです。

 だけど君たち若者がいる!!
 テレビで『若者たち』というドラマやってます。実は題名だけ聞くとあまり観たくない気分なのですが、自分が既に若者ではなく、若者たちに期待する世代になったことに気付いて、観ています。
 妻夫木君演じる長男を中心に不遇な兄弟姉妹が助け合いながら成長していく、いわばお決まりのドラマなのですが、なぜか新鮮に感じます。意外に面白いです。
 昔は俺たちの世代ってこんな風に、いやいやもっと熱かったんじゃないのかな・・ 勿論シラケ世代のオジサンの考えることですから、異論はおありでしょうが、PCのない時代、何事も自分で何とかしなければならなかった時代、何事にも真剣に打ち込まなければ仕方なかったなあなどと・・・・色々と思い返されます。
 今は若者たちがとってもシラけている時代に感じます。きっと多くの親たちが知らない内に彼らの人生をシラけたものにしてしまっているのではないのかなと、考えたりしてしまっています。
 実はもっともっと熱く真剣にならなければとんでもない未来がやって来てしまう不気味な時代だとも思います。
 でも、時々いるんだなあ。しっかりした若者が・・・・
無責任なマスコミが色々何かと不安をあおって毎日が過ぎて行きます。だけど、君たち素敵な若者がいることを私はとても期待しています。
 

 ありがとう国立競技場\(^o^)/
50年にわたる国立競技場の歴史が、5月31日幕を閉じました。昭和39年10月10日東京オリンピックの開会式、4歳の自分も確かにテレビで見ていた、あの開会式で大空に見事に五輪マークを描いた航空自衛隊ブルーインパルスの大変な努力のエピソードを特集番組で見て、改めて感動の思いを抱きました。
初めて行った国立競技場は、学生時代最後のラグビーの定期戦でした。愚直に、ただただ前に突き進んで行く母校とゴールラインに足をのせながら決して得点を許さないライバル校の激戦は、それから人生の生き甲斐のひとつになりました。その後30年、家族と一緒に、あるいは一人でラグビー観戦に国立競技場に行くのを年末の楽しみにしていました。
年に一度、学生の心になって思い切りラグビーを堪能しながら、その年・歳のさまざまな出来事とともに、自分の人生観を構築して来たように思います。
国立競技場ごくろうさまでした。そしてありがとうo(^o^)o

 車椅子で亡夫の追善
お年寄りや弱者に優しいお寺を目指してバリアフリーの客殿を新築し、昨日初めて車椅子を利用されている高齢者の参詣がありました。
90歳代のご婦人、ご主人の13回忌にお子さん方に連れられてのお参りでした。玄関前のスロープを経て玄関に入ります。玄関の段差を難なく乗り越えて玄関ホールへ。 エレベーターで2階に上がってから、階段に設置した着座式の昇降機に乗って本堂へ。本堂内のスロープを通って施主席へ。
以前数人で抱え上げていたことを思うと、ずいぶん簡単に本堂や客殿を利用していただけるようになったと思います。多目的トイレも設けてありますので、足腰にトラブルを抱えている方々に、広く利用していただけます。
お寺の法事や行事に限らず、活け花やパッチワークなどの展覧会などにも、活用していただき、今まで以上に地域の皆さんに親しんでいただきたいと考えております(^_^)v